慣れ親しんだ「入れ物」から出る

 

私はとても意固地な性格だ。自分の考えをなかなか変えられない。すぐに人に意見を求めて影響されるけれど、その実行動は変えない。変えられるほど「素直」にはできていない。

 

自分の方法で上手くいかないのなら、従えばいいのに…と我ながら思う。だけど、その時の考えや欲望から自由になれない。

私が変わりたいと思いながら、変われなかったのはその辺に理由があると思う。

 

その時の自分の意思と反対のことをするのは、私にとってとても勇気がいることだ。同じ事をやり続けることほど楽なことはない。苦しいと感じているつもりでも、本当に苦しければ改善策をそれこそ死に物狂いで見つけるだろう。

変化に対応するのが怖いのだと思う。変化に対応できなければ、成長は望めない。

 

私の場合の課題は、自分をダメにしてしまう物事を全て止めてしまうことだと思っている。まずは、溜まりにたまった垢を落とすことだ。

 

慣れ親しんだ入れ物の中から自由になるのは、どんな気分がするものだろうか?それはとても怖いだろうし容易ではないだろう。

でも、その入れ物から出てみたい。

 

必要だったものが必要でなくなるかもしれない。

 

大事なことは、慣れ親しんだ入れ物からまた別の入れ物に入ってしまわないようにすることだ。


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やりたくない、という動機

 

本当にこの世の中想い通りにはならないことばかりだ。

 

皆そんな世の中で、本当に一生懸命に生きている。私の人生など本当に他の人から見れば甘いのだろう。やらなくてはならないことを、だいぶ避けて通ってきた。

若い時代に乗り越えねばならなかったことを、すっ飛ばし今頃心の中は困っている。

 

自分の努力してきた成果が、必ず出るとも限らない。それなのにどうして頑張れるのだろう?私の場合、努力も短距離型。ひとつのことをやり続けることが難しい。もともと飽きっぽくて、新しいことが見つかるとすぐ目移りしてしまう。しかし、それは結果が出てしまうのが怖いというのが本当のところだ。

頑張った末に出来ない、という事態が怖かった。怖い想いをするより「得意なことは何もない。」と開き直る方が楽だった。

 

しかし、その姿勢は私から多くのものを奪ったような気がする。人はたぶん誰でも取り柄のない人など評価もしないし、好感も持てないと思う。

私自身も、ひたむきに何かをやり続けている人に惹かれるし、何もやらない人に面白味など感じられない。

取り柄のない人間などいないと言うけれど、いるのだ。私である。自分でいうのも何だが、本当に面白くない人間だ。

 

そして、果ては一体何をしたいのか分からないという事態に直面する。

明確な目標がある人は、信じられないかもしれないが、本当に色々探してみたものの、何をして良いのやら分からない。全て漠然としている。

 

世の中で成功している人はよく「動きなさい!」という。行動しなければ意味がないということだけれど、一体どこへ向かえば良いのかも分からない。

 

でも、本当は分かっているのだ。何をしたら良いのか分からないという人の心の中には「何もやりたくない。」という気持ちが潜んでいる。少なくとも自分の分析をしてみるとそうだ。密かに私と同じ問題を抱えている人も、胸に手を当てて考えてみて欲しい。どうだろうか?心の中で「やりたくない。」と叫んでいないだろうか?

 

「やりたくない。」動機は色々あるのだろう。でもそんなの理由にならない。全て言い訳にしかならない。

生きている限り、何かはやらなければいけない。何でもいいのだ。簡単なことから始めればいい。

 

例えば、生活の中で(私の場合家事だが。)やらなければないないことを、まずは一生懸命やってみればいいのだと思う。手抜きではダメだ。何も変わらない。真面目にやれば、やったことにより充実感なり何なり、何かを感じる筈だと思う。

その時がチャンスだと思う。そこから、何かに繋がっていく。

 

その「何か」とはやる気だと私は思う。

 

やる気が、全ての動機なのだと最近感じる。

 

 

断捨離

 

物にしても、想いにしてもいらなくなった古いものは時には捨てることが必要だ。

断捨離については、関連した書籍がたくさん本屋に並んでいる。確か断捨離がブームとして取り上げられたのは、ずいぶんまえのような気がするけれど、未だに本屋にあれだけの断捨離についての本が並んでいるところを見ると、必要性を感じている人がそれだけいるということだろう。

 

私は実は断捨離についての本は読んだことがない。だから、断捨離のなんたるかについてはよく知らない。人の話を聞いたりしたレベルでこれを書いている。一度は断捨離について勉強してみるべきかもしれない。

 

私の捉えている断捨離ということで、話を進めたいと思う。

 

私は心の断捨離がとても苦手だ。結論の出ている想いを、いつまでも心の中に持ち歩いている。そのうちその想いが腐って、腐敗臭を漂わせる頃にようやく気づくが、それでも捨てられない。

これを人は「執着」と呼ぶ。

 

私は今日いらなくなった想いを捨てた。

これまで随分悩んだが、なかなか決心がつかず同じところをぐるぐる回っていた。そして昨日の夜やっと決心がついた。

清々しいという感覚ではない。でもそのうち、全て忘れた頃には今感じているこの想いもキレイに忘れてしまうだろう。

 

あなたは、いらなくなった想いを後生大事に抱え込んではいないだろうか?それは本当は必要なのか?それとも必要のない想いなのだろうか?

それを判断するのは、その想いがあなたを汚しているか、いないかだと思う。

あなたを汚す想いなどいらない。勇気を持って捨てた方が良い。

 

誰しも自分の本音に従って生きれば、心はそうそう汚れるものではないと思う。

自分自身が本心を裏切っているのだと思う。

心の掃除は積極的にした方が良い。

 

もしかしたら、その後に美しいものが手に入るかもしれない。

 


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尊敬する女性

 

私には昔から尊敬している女性がいる。

その人は、いわゆる社会的弱者の人たちを助けることを、長年生業としてきた。

私は中学生の頃にその女性と出逢った。一目でその人に惹き付けられた。子供心に何か勘のようなものが働いたのだろう。

 

あなたにも、もちろん尊敬してやまない人がいると思う。

 

若い時代にそのような人と出逢うと、その人の生き方や考え方が指標となる場合もあると思う。

私はその人と話し、生きる姿勢を想像しとても素敵だと何度も感銘を受けたものだ。

今、その人のように生きているかと言えば、まったくその逆の路線を突っ走ってるようなものだけれど、人に対する考え方の軸のようなものは、やはり影響を受けたまま変わらない。

 

それを言葉にしようとすると、何か違うものになってしまうような気がするので、敢えて言葉にはしない。

 

ひとつ言えるとしたら、その女性は人は誰ひとりとして、同じ考えを持つものではないとよく知っているということ。一人一人の個性を認めているということだ。

今の私は到底そうはなれないけれど、いつかそう思える日が来たらいいと願っている。

 

今日は、素晴らしい青空だ。

私の心も晴れ晴れしている。

 

この青空のように曇りのない目で、人を見つめられたらと思う。

 


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それぞれの生き方

 

私は昔、自分は路上生活者になると確信していた。そういう人を見かける度に、未来の自分の姿だと切なくなったものだった。

 

あなたは過去にどんな未来を想像していただろうか?人生にはまさかの坂があるという言葉に、本気で笑った想い出がある。

私の最大の「まさか」は結婚したことだ。まさに「まさか」だ。てっきり路上生活者になると思っていたのに、雨風しのぐ屋根の下に住んでいて、食べ物に困ることなどない。

 

結婚生活にはどこの家でも様々な問題があると思うけれど、そんな時に少なからず不満が生まれる。そういう私もいつも不満を口にしている。もともと路上生活しか思い描けなかったのに、贅沢になったものだと我ながら思う。

 

どうしてこう欲というものは膨らんでいくのだろう?人間は進化していくことを求めるから、当たり前だとは思うけれど、私に限って言えば欲を持つだけの努力をそれほどしてこなかったので、文句をいう筋合いなどないかもしれない。

 

少なくとも欲を持つだけの努力は必要だと思う。

 

今の私はどうだろうか?やはり昔と変わっていない。すべてが諦めることから出発している。自分には生きるエネルギー自体が圧倒的に不足していると思う。万年エネルギー不足だ。

 

前向きに生きている方がこの文章を読んでしまったら、不快に違いない。

 

自分にエネルギーが足りないと気づいてから、できるだけ省エネで生きようと決意した。自分の出来るだけのことしかやらない。決して無理はしない。

 

そんな生き方もある。

 


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分かり合うことは可能か?

 

人と人とが分かり合うことは可能なのだろうか?

 

最近そんな疑問がむくむくと沸き上がってきた。私とあなたが違う現実を見ているとしたら、分かり合うことなど不可能のように感じられる。

 

家族間の問題も職場での問題も、その他の様々な問題も人それぞれが、違う感性を持ち違う視点から現実を見ているために起こることだろう。

私はある人から口を酸っぱくして言われた。

「生まれも育ちも、住む場所も食べるものさえも違う他人を、自分と同じ考えを持った人間だと思うな!」

もっともだ。これは、多分私がそう思い込みやすいという特性があるので、何度も言われ続けたのだろう。

でも、それが分からないから、ムダな争いが増えるのだ。普段は分かっているのに、カッときた瞬間に忘れてしまうことはないだろうか?

 

どんなに立派に見える人でも、所詮自分と違う立場の人間の気持ちは分からない。同じ立場だとしても、やはり分かるようで分からないのではないのだろうか?

 

皆そういう現実と折り合いをつけて生きているのかもしれない。

 

そう考えてみると、人と分かり合うことなど奇跡のようにしか思えない。

最近だんだん頭の中が現実に近づいてきたように感じている。夢がなくなった。

少し淋しい気持ちだけれど、それで良いのだろう。

 

もし、お互いが徹底的に気持ちを見せ合ったとする。結果はどうだろう?私は同じだと思う。話せば話すほどに気持ちは離れていく場合もある。何故ならやはり違う考えを持った別の人間だから。

 

一度現実に立ち返って、世の中を見てみよう。

 


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決断は自分でする

 

人は、どんな境遇にも慣れてしまうようだ。例えば旦那が本格的に休職して、三ヶ月以上経つが今の生活にも、もう慣れてしまった。

お互いの障害を承知で結婚したのだから、どちらかが調子を崩すのは覚悟の上。旦那二回、私一回の入院生活を含む結婚生活だ。

 

慣れというのは本当に怖い。良い習慣を持つのなら大歓迎なのに、悪い習慣には驚くほど人は早く順応してしまう。そして、そこから抜け出せなくなる。

意志をしっかりと持ち、生活をきちんとコントロールできている人は世の中にどれくらいいるのだろう?時にはダメだダメだと言いながら、誘惑に勝てずハマってしまう。

ギャンブルや酒。煙草などの依存症もそうだ。そして異性に依存する人間も中にはいる。

 

私など、酒以外は殆んど満たしているといってよい。

お酒だけは不思議と飲まない。これは意志の力というより、どちらかというとお酒が必要ないのだ。かつてお酒を飲んでいた頃は、酒癖が非常に悪かったので、飲まない方が皆のためだとも思っている。

 

しかし、ダメよダメよと言いつつハマってしまう人間て、本当に愛すべき動物だと思う。

その弱さを許すか、目くじらを立てて怒るか。

もちろん依存症は深刻な問題なので、許せるものではない。私の依存症も最早笑えないところまできている。

 

そういう悪い習慣や依存症から抜け出すのは、最終的には意志の力だと思う。深刻な依存症の場合、まわりのサポートも必要だと思うが、本人に禁止することがサポートではない。無理やり禁止してもその行為をする言い訳になるだけだ。健康を害しても自分の責任なのだ。だからまわりは見守るしかない。

本当に見守るしかないのだ。もし、配偶者が深刻な依存症で困っているのなら、最後まで見守るか、自分の人生を考え直して離婚するかの二択しかないような気がする。

 

本人ができることは、その状況を「変えるか、変えないか。」だけ。まわりの愛の力で依存症が治るなら苦労はない。

「変えるか、変えないか。」選ぶのは自分の意志の力だ。

 

自分も含めて本気で考え直していかないといけない。まわりには自分を大切に思ってくれる人が多分いる。自分はそのまわりの人を果たして大切にしているだろうか?その人たちに恥じない生活をしているだろうか?

自分の行為で傷つき、苦しむ人がいることを本当に分かっているだろうか?

 

それに気づくか、気づかないかだけで物事はだいぶ違って見える筈だ。

 

大切な人を失ってしまうまえに本気で考えてみたい。

 


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