病気について
今日は久しぶりに、自分の病気の話題でいきたいと思います。
私は24歳の時に統合失調症を発症して、一昨年の秋口に抑ウツ状態となり、4回目の入院生活を経験した。期間は1ヶ月だったが、薬の変更があった。
退院後に見事に軽躁状態となり、躁状態は治まらず入院する前より、やたらに行動的になった。
もともと私は感情コントロールが苦手で、発病後は年々多薬になっていった。
いわゆる「聴こえる」とか「妄想に突き動かされる」といった症状は、投薬後全くなくなった。
20代から30代中頃までは私の中では、一番辛い時期だった。パニック発作の予期不安に怯えて、しょっちゅう注射を受けていた。自分が自分でなくなってしまうような恐怖。
一言で表現するならば「気が狂いそう。」という感じ。何とも皮肉な話だ。
私は発病するときもいわゆる錯乱状態に陥らなかった。本当に静かに発病した。統合失調症になった、という自覚もあった。
結婚するときに旦那への病状説明を希望した。
主治医曰く。
「うーん、これといってないんですよね。」
「まぁ、ひとつ言えば不安がとても強いということですかね。」
その先の私の病状の変化を考えると、主治医の説明は結構甘かったかもしれない。
現在の私はというと、軽躁状態を引きずっている。まわりの解釈は分からないけれど、何かに急き立てられるような気持ちでいる。
脳ミソは慢性疲労状態で、いつも泣きたくなる。だけど泣けない。
日々「疲れたー。」が口癖になっている。自分で自分を追い込んでいるのに、とても心は困っている。
毎日「これが限界ではないか?」という考えが頭をよぎる。
しかし旦那は休職中。休んでいる暇などないと何とか自分を保っている。
本音を言えばとても心細い。しかし社会に対する耐性が無くなることを天秤にかけると、入院して休みたい気持ちより、このまま突っ走るか!という気持ちが勝る。
このブログが更新されなくなった時が、私が力尽きてしまったという証です。
そんな日が来ないことを真剣に祈っていますが…。
*これはまったく個人的な経験で、全ての統合失調症の患者の方々が、同じ経験をしている訳ではないということを記しておきます。
私の考える自由とは
日々皆さんは働きそれぞれに社会貢献している。色々なことに縛られ、不自由な想いを抱えているのだろうと思う。
私は専業主婦で時間的な制約はない。何かに縛られている訳でもない。家事や日常の雑事を終えてしまえば、あとは自由に時間を使っている。
あなたはそういう生活を羨ましいと思うだろうか?
私は今自分にできることをやっているまでだ。社会に出て働くことを試みたことも何度もあった。ことごとく失敗した。
自分には他の人が簡単にできることをこなしていく能力がない。それは長い間自分のコンプレックスだった。
果たして自分にできることは何だろうか?と堂々巡りしていた。
自由とは何だろうか?
立派に社会貢献している人でも、自由な心を持った人は沢山いるだろうと思う。
時間的なゆとりがいくらでもあっても、心が不自由な人もまた沢山いる。
自由とは心の問題なのだと思う。
私は長い間不自由だった。時間は腐るほどあるのに、文字通り大切な時間を腐らせていた。
しかし、その時間を無駄だったとは思わない。
今はとても自由だ。穏やかに流れる時間に身を任せている。今自分ができることの中から、その時できることだけをやっている。
とても贅沢だと思う。
ただ、そもそもの最初からこの生き方を望んでいた訳ではない。今やっと自由だと思えるようになったのだ。
もし、私の生活を羨ましいと思う人がいたら、疑問符が出てしまう。
やれることが多ければ多い人ほど私は羨ましい。
私は「これだけのことしか、できない」と気づいた時とてもショックを受けた。しかし、受け入れるしかない。
社会に出ている方でも能力には幅があると思う。
かつて社会の中でいわゆる「できない人」の中にいた私は、発病後ますます「できない自分」になった。受け入れるまでに時間がかかった。
私が今考える自由とは、自分が今できることに気づき、それを実行していく中にあると思う。
ただ、時の流れに任せてダラーっとしているのもある意味自由だけれど、自由な気持ちにはなれないと思う。
自由には何か満たされる感覚が必要だと思う。
例え忙しい中に身を置いている方でも、きっと心の自由を獲得することは可能だと思う。
甚だ勝手な自由についての考察だけれど、あなたの心がどうぞ自由でありますように!
自分のために生きるとは
自分のために生きるとは、どういうことだろうか?
よく自分のために生きることが、結果的に人のためにもなるという。
その逆も然りだと思う。
しかし、そこに打算が入れば結果は全く違うものになると思う。
私はつくづく自分のために生きていると感じる。それは、やりたいこともやりたくないことも含めて行動しているということだ。
自分らしいか、らしくないかで言えば自分らしく生きていると感じる。
まわりは混乱しているかもしれないけれど、究極は自分らしく生きることが、自分もまわりも幸せになる道だと信じている。
もちろんまわりとの軋轢も生まれる。
けれども、自分の欲求を誰かが誰かのために隠してしまえば、その人は不幸せになってしまう。
恩着せがましい人もいる。
「あなたのため」というやつだ。自分の心に聞いてみるべきだと思う。その人は自分のためにやっているのは明らかだ。
人は自分の人生を自分で選びとっている。どんな受け入れ難いことであっても、態度を決めるのは自分だ。
「あなたのため」は言い分けでしかないと思う。
どんなに大変なことでも、自分の本当の意志でやれば「あなたのため」ではなくなる。
それが互いの幸せであると思う。
自分の心に正直に生きるのが一番良いと思う。それは、自分勝手とは似て非なるものだ。目的に近づくには、どんな大変なことでも自然とやっているのではないだろうか。
人のために生きるのも、自分のために生きるのも、そこに純粋な意志があれば同じことだと思う。
人はどうしても感謝の心を求めてしまう。でもそれを求めるのは違う気がする。
感謝の気持ちを求めるとその行為が汚れてしまうような気がする。
それを知ってさえいれば、少しは気持ちが楽になると思う。
「あなたのため」という生き方はしたくない。
あなたの大切な人は、きっとあなたの笑顔を求めている。
自分を愛する
幸か不幸か、私は親にはならなかった。
主治医に、減薬して子供を産む道を進められたが、夫婦で話し合い結局子供はつくらないことに決めた。
私は子供を産み育てることが非常に怖かった。父との葛藤の真っ只中であったし、果たして自分と同じような障害を持って生まれた場合、きちんと責任を持って子を育てて行けるか想像することも出来なかった。
長い間の父との葛藤が、心の中で終わったとき、初めて親の視点からものを見ることができた。
私には姪がいるが、姪と関わり、その親である姉との関わりの中で、それまで見えなかったものや、考えもしなかったことをふと感じる瞬間がある。
不思議と自分の心が納得しない間は、姪を見ていても何か不思議な動物でも見ているような感覚があった。
特に姪の鳴き声には恐怖を感じたものだ。とても、私の心を乱れさせた。
姪に対して苦手意識を感じなくなったのは、ほんの最近である。
子供を素直に可愛いと感じる。
それは、少なからず自分を愛せるようになったことと関係していると思う。
旦那との結婚生活が波乱に満ちていたのも、父との関係を見直すきっかけになったと感じている。
それら全てのことが、自分の過去を洗い出すきっかけとなり、結果的に自分の過去もそれなりに幸せに満ちていた、とあらためて考え直すことに至ったのだと感じる。
現在の生活がどうあれ、過去を受け入れ、自分を愛する感覚を味わえる今こそが、一番幸せだと感じている。
自分にばかり使っていた、時間とエネルギーを他にも向けて使って生きていきたい。
人の生きてきた道には本当に無駄がない。
過去のどの時間も、今に導かれる布石だったかのように感じられる。
依存から抜け出す
対人依存とは…他者に対する意識的、非意識的な強い依存欲求を持ち、他者からの承認や支持を過度に求めること…だそうだ。
まさに私は対人依存的な人間だった。
他者からの承認がなければ、どう動いて良いのか分からないほど、混乱していた時期があった。
そして自分の存在や、行動が認められないと、生きていけないと本気で思っていた。存在が認められないと確かに生きてはいけない。私の場合は一体何処へ向かって生きていけば良いのか、分からないというレベルだ。
対人依存が過度になると、まわりに居る人たちはしんどくなる。
「何故そんなに認められたいのか?」と問われたことがあるけれど、それは他者から認められた経験が、あまりにも少なかったからだろう。
認められるように頑張ってきたか?という問題とも少し違う。
そもそもの最初から、何か飢餓感のようなものに縛られて、何をやっていても虚しかった。自分のやっていることが本当にやりたいことなのか、身になっているのかさえも分からなかった。
私の対人依存は必然のような気がしてならなかった。
自信が持てなかったのだ。
誰かに「今のあなたで良い。」と言われなければ、安心できなかった。
私は現在、全てにおいて自分自身のためにやっていると思えている。
状況は決して良いとは言えないけれど、それにしても自分で選んだ道だと思えている。
他者におんぶにだっこだった自分も少しずつではあるけれど、変化の兆しが見えてきた。
何よりも良いことは、なくしていた自信を取り戻しつつあることだ。
これがまやかしの自信でなければ良いと感じる。私はそれなりの代価を払ってきた。
それなりの自分である必要がある。
ノートをなくして得られた教訓
私はいつも、まわりを責めてばかりいる。
何か窮地に立たされたとき、一番に感じるのは「自分のせい」ではなく「相手のせい」なのだ。
後になって振り返ってみれば、自分の悪かった点が見えてくるのに、一大事になれば心も瞳も曇ってしまう。
人のせいにしていては、何も変わらない。そして何も分からない。
我が身を振り返り、物事を客観視できたときに初めて物事の全貌が分かってくるような気がする。
その反対に何もかも「自分の責任」と、捉えてしまう人もいる。たちがいいように見える。でもその人は幸せではないだろう。
私はそういう人の中にも「自罰的」な部分と「他罰的」な部分が見え隠れするような気がする。
他人を責めるのも、自分を責めるのも否定的になっているという点では同じだ。
私は心理学のことはよく分からないけれど、自分自身のことを考えても、まわりを責めているとき、同時に自分のことを責めていると感じる。不甲斐ない事態を起こしてしまった自分を猛烈に責めている。そして、責任転嫁に走る。
私は病気になったことを、ずっと自分の弱さのせいだと思ってきた。なるべくしてなったと。同時に混乱状態にあった自分を、助けてくれなかった親のせいだとも思っていた。
本当は弱さのせいでも、親のせいでもない。事実が事実としてあるだけだ。
自罰的になっても、他罰的になっても事実を隠してしまうような気がする。
私は昨日、大切にしていたノートをなくしてしまった。大捜索して、なくしてしまった責任に目を向けずに、旦那に八つ当たりしてしまった。恥ずかしい話だ。
ノートは朝になって見つかった。
何回も探した筈の部屋にひっそり隠れるようにしてあった。穴があったら入りたい。
どんな物事からも教訓は得られる。
ここ2、3日自分の心が乱れてると感じていた。
心の乱れで、自分の目を曇らせてはいけない。
自分の感覚を鈍らせてはいけない。
事実を事実として見ることを忘れてしまってはいけない。
人間の素晴らしさ
私に見えている世界と、あなたに見えている世界は違う。
感じ方も、欲望も、これまでの生き方も、未来への希望も何もかも一致することはない。
私とあなたが違うのは、当たり前の事実だ。
例えば血のつながった親子でも、兄弟姉妹でも似ているようで、見えている世界は全く違う。
何を当たり前のことを!と言われそうだけれどこれからが本題。
私はそれを、時々淋しいと感じる。
だからこそ人間は、ある一瞬でも共感できたことを、喜ばずにはいられないのだと感じる。
「共鳴」という言葉があるが、私はその言葉が昔から好きだった。「共感」よりも少し深い感じがする。五感で感じるものだからだ。
誰かと共鳴し合うことなしに過ぎるのが、普段の日常だと思う。
だからこそ誰かと共鳴し合えることは、人生の醍醐味と感じる。
自分の見えている世界が広ければ広いほど、そういう体験も増えるだろう。
今現在、私の過ごしている世界は狭い。
しかし、家に居ながらでも何かに共鳴することは可能だと思う。書物や音楽。TVで流されるニュースやドキュメンタリーであったり。
それが、人間の持つ感性の素晴らしさだと思う。
私には、様々な人たちの世界を垣間見たいという欲求がある。
これからの人生でどれだけの世界を見ることができるだろうか。
それが楽しみでならない。