ノートをなくして得られた教訓
私はいつも、まわりを責めてばかりいる。
何か窮地に立たされたとき、一番に感じるのは「自分のせい」ではなく「相手のせい」なのだ。
後になって振り返ってみれば、自分の悪かった点が見えてくるのに、一大事になれば心も瞳も曇ってしまう。
人のせいにしていては、何も変わらない。そして何も分からない。
我が身を振り返り、物事を客観視できたときに初めて物事の全貌が分かってくるような気がする。
その反対に何もかも「自分の責任」と、捉えてしまう人もいる。たちがいいように見える。でもその人は幸せではないだろう。
私はそういう人の中にも「自罰的」な部分と「他罰的」な部分が見え隠れするような気がする。
他人を責めるのも、自分を責めるのも否定的になっているという点では同じだ。
私は心理学のことはよく分からないけれど、自分自身のことを考えても、まわりを責めているとき、同時に自分のことを責めていると感じる。不甲斐ない事態を起こしてしまった自分を猛烈に責めている。そして、責任転嫁に走る。
私は病気になったことを、ずっと自分の弱さのせいだと思ってきた。なるべくしてなったと。同時に混乱状態にあった自分を、助けてくれなかった親のせいだとも思っていた。
本当は弱さのせいでも、親のせいでもない。事実が事実としてあるだけだ。
自罰的になっても、他罰的になっても事実を隠してしまうような気がする。
私は昨日、大切にしていたノートをなくしてしまった。大捜索して、なくしてしまった責任に目を向けずに、旦那に八つ当たりしてしまった。恥ずかしい話だ。
ノートは朝になって見つかった。
何回も探した筈の部屋にひっそり隠れるようにしてあった。穴があったら入りたい。
どんな物事からも教訓は得られる。
ここ2、3日自分の心が乱れてると感じていた。
心の乱れで、自分の目を曇らせてはいけない。
自分の感覚を鈍らせてはいけない。
事実を事実として見ることを忘れてしまってはいけない。