障害者と健常者

 

私の障害である統合失調症は、約100人に1人が発症するとされている。

100人に1人というと、私の感覚ではそれほど珍しい病でもないという印象を受ける。

自分の同級生の数を思い浮かべても、確率からいえば、自分だけではないと言える。

 

私は今日初めてリカバリーという言葉を知った。精神保健福祉分野では、精神疾患を持つ患者が自己実現や生き方を主体的に追及するプロセスを指すらしい。

 

何も精神疾患を持つ患者でなくても、それは人間が生きていく上で最も重要なテーマのひとつだと思う。

だから分けて考えることは、本来難しいと思うのだけれど、自分の経験を踏まえて少しだけそれについて考えてみた。

 

精神疾患を持つ患者が、健常者と同じ立場で同じように働くのは、残念ながら難しいと思う。これは差別ではない。経験上の感想でもあるし、まわりの同じ障害を持つ患者さんの話を聞いてみても、それは明らかだと思った。

残念な事実だけれど、発症前の自分と発症後の自分の能力の差は歴然としている。

 

だからこそ、リカバリーということが言われているのだと思う。

実際にデイケアや、就労支援が行われてるのもそのためだと思う。

デイケアでは、プログラムを通してまわりの人たちとの関係の築き方や自己表現の仕方、自分の居場所の確保や、生活習慣の見直しをして学び直す。(これはあくまでも私の観点から見たデイケアです。)就労支援にしても、就労するにあたり自分の美点や弱点、向き不向き等を、客観的にスタッフに見て貰い実際の就労に結びつけるためのプロセスだと思う。

自分では気づきにくいことを、客観的な視点から支援して貰えるのはありがたいシステムだと思う。

 

私はデイケアに参加する動機が見つけられなかった。そのため徐々にデイケアから足が遠のいた。

私にとってデイケアは避難場所だった。家族間のいさかいや、それからくるストレスをただ発散するための場所。

身に付いたことは殆んどないけれど、自分という人間を嫌というほど思い知らされた苦い場所でもある。

自分は無能であり、人との関わりもまだまだ苦手だ。

 

リカバリーどころの話ではないかもしれない。

 

精神疾患は完治することはない。一生の付き合いだ。病気と付き合いながら、自分を向上させるために努力し続けるのだ。

 

先にも言ったように、一点を除けば健常者も全く同じだと思う。

誰もが悩み迷いながら、自分の道を模索していく。

だから、要は同じなのだ。

 

障害者と健常者を明確に分けるものとは一体何だろうか?私には分からない。

 

一生懸命生きているという点では、誰もが平等ではないだろうか?

 


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諦められない自分、変わらない自分

 

諦めるべきことを諦めた時に感じたのは、穏やかな気持ちだった。それと同時に自由な感覚。

しかし、またもや心は揺れている。

本当に諦めきれたのか?また心が振り出しに戻るのではないか?

 

本当に心というのは魔物だ。

自分のものなのに、制御しきれないときがある。

私は常々そういう傾向があるけれど、他の人たちはどうやって心をコントロールしているのか、全く今の私には分からない。

 

過去に執着について書いた。私は物事に対処しているのではなく、ただただ反応してそして執着している。

それを変える手立てはないものかと、真剣に考え込んでしまう。

 

こんな自分では到底まえに進めない。

「いま」は今しかないのに、執着することで堂々巡りしている。

 

変わりたいのに、変われない自分。

 

もしかして、本当に自分は変われないまま過ごしていくのか、とがっかりしてしまう。

 

人間とは案外こんなものなのかもしれない。

三歩進んで二歩下がるという唄があるけれど、本当に小さな小さな一歩しか、踏み出せないものなのかもしれない。

 

今回はとても、読みづらい文面で申し訳ないと思うけれど、自分の本音でなければ意味がない。

 

ブログを読んで下さった方にお礼を言いたい気持ちです。

 

そうはいっても明日にはまた新しい朝がくる。また新しい朝陽に逢えることを楽しみに眠りにつきたいと思う。

 


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心の始末

 

自分の心の始末をするのは、大変だとつくづく思う。これは私だけなのだろうか?

 

怒りや悲しみからくるストレスからウツになってしまう人の多さからいうと、どうやら私だけの特徴ではないらしい。

 

では、心の始末が上手な人と下手な人の差は何だろうか?

私の例をいえば、とにかく何でもかんでも引きずっている。忘れた筈の怒りを急に思い出して、再び怒りに火がつくというのはざらだ。

そのくせ、喜びには無頓着かもしれない。「あるもの」と認識はするけれど、すぐに忘れてしまう。

 

人は都合良く物事を解釈してしまうけれど、これでは全く都合が良くない。

何故負の感情にばかり目がいくのか?そして何故それに執着してしまうのか?

素直に喜びの感情に身を委ねられれば、これほど幸せなことはないのに…。

 

多分愛情の欠落と関係しているのだと思う。

自分に満足している人は、きっとそれほど物事に執着しないのだろうと思う。そして、次に進める。とても健全だと思う。

自分に満足していない人は、きっと求めても求めても足りないのだと思う。

人生の良い面に目が向けられていないのだと思う。

 

心の始末が下手というのはたぶんその点なのだと思う。無いものねだりなのだと私は感じている。今あるもので満足できないのは不幸だ。

人間どうしたって、自分の心を納得させて諦めなければならないものが、いくらでもある。それをどう認めて始末するか。

 

誰も自分の心の始末なんてやってくれない。

 

いつまでも引きずるより、その心をゴミ箱に捨てるように、潔く放ってしまえば気持ちは楽になる。

 

たかだか人生の中の一瞬の出来事に縛られている時間はない。

 


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忘れられないことを忘れる

 

誰にでも忘れられないことのひとつやふたつあると思います。

そんな私も、今そんなことでグズグズ悩んでます。あー、うざったいと思いながら…。

自分は何も変わっていない。それが一番がっかりします。

 

忘れられないことを忘れるには、思い出さないことではなく、自然に任せて思い出すだけ思い出せばいいのかもしれない。そう思ったりしています。

 

今の苦しい気持ちも、否定しないで受け入れればいい。

 

そのうち時間が解決してくれるような気がします。ひとつの想い出としてただ残るような気がしています。

 

今日は天気と同じく心も曇っています。

 

でも、それでも明日はやって来ます。

今は忘れられないことも、いつかはどうでも良かったことになることを願って!

 


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タイミング

 

どうやら人生にはタイミングというものがあるようだ。

 

人との出逢い、本や映画、音楽や自然など。全てにおいて出逢いのタイミングがあるような気がする。

 

過去のあの時はそれほど心惹かれなかったものが、ある時心底心に響くというような体験をする機会がある。

そして、友人や知人にしても熱心に心通わせる時期もあれば、暫く音沙汰がなくなったりする時期もある。相手の状況があるにしても、その時はこの人でなければダメだという感覚がある。

 

そういう風にして出逢った人や物事からは必ず影響を受ける。

自分のまわりにいる人からは、私は何らかの学びを得ている。だからまわりにいる人やものを大切にしたいという気持ちがある。相手がどう感じているかは分からないにしてもだ。

 

私には今とても読みたい本がある。全て揃えて準備している。けれど私の本能は、まだ読むべき時期ではないと教えてくれるかのように、不思議と手がのびない。

読むのは「いま」ではない。

 

過去に出逢ったものに、再び出逢い直す時もある。それらは、その時に感じた想いとは、また別の感慨を私に与えてくれる。

 

そういう出逢いというのは不思議だ。

過去のあの時にはスルーしてしまったのに、何故「いま」なのだろう?

その時の成熟度によって求めるものも違うから、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。

でも、面白いように引き寄せられるから、やはり不思議だ。

 

これからも、そういう出逢いを大切にして縁を育てていきたいと思う。

 


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時間と自由

 

時間はその人それぞれのリズムで流れているそうだ。

 

一時期「いま、ここ」という言葉が盛んに使われていたことがあった。私も意味も理解せずに使っていた。記憶に新しいと思う。

 

私たちが生きているということは、時間と共にあるということだと思う。

過去を懐かしんだり、未来に想いを馳せて心踊らせたりしている。でも基本的には私たちには「いま」しか体験できないのだそうだ。

当たり前といえば当たり前と思われるかもしれないけれど、私は「いま」を見失いがちだった。過去に縛られ過ぎていた。

 

楽しい時間は永遠に続いて欲しいと思う。けれど、苦しい時間は一瞬であって欲しいと願う。でも「いま」しか生きられないのだとしたら、一瞬一瞬を慈しむことができないのはとても勿体ないと思う。

 

確かに苦しい時間を慈しむ余裕なんてない。苦痛で苦痛で仕方がない。逃げ出したいと思う。けれどそれが「いま」なのだとしたら、その「いま」を生きるしかない。

 

自由にならないとは、時間に縛られている状態だ。心も身体も両方だ。

可能かどうか分からないけれど、時間を主体とするのではなく、生きている自分を主体とすれば良いのではないかと思う。時間を味方にする感じだ。

 

人間が本来のリズムで生きられないのは、きっと時計が刻々と時を刻むからだと思う。時計の針にせっつかれて、せかせか動かされている。

 

自由とは「いま」の中にしか存在しないと思う。だって私たちは「いま」しか経験できないのだから。逆にいえば「いま」が自由だとも言えると思う。

 

時間をどういう観点から見るかによって心の「自由度」が決まる気がする。時間を使うか、時間に使われるか…。

 

これを読んでくれた方がどういう風に感じるかは分からない。

 

できれば時間を味方につけて「いま」を存分に充実させて欲しいし、自分もそうありたいと思う。

 


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病気について~あの頃の友人に感謝を込めて~

 

本日二回目の更新です。朝に続いてもう少し私自身の症状について触れたいと思います。

 

統合失調症を発症して、私の人格は一度壊れてしまったと認識している。

常識も、当たり前の理屈も全く通用しない。大きな赤ん坊のような存在になってしまった。

24歳の大人として身に付けているものが、全て何処かに吹き飛んでしまったようだった。

 

そのような状態がどれくらい続いたのか覚えていないけれど、まわりの友人、知人には多大な迷惑をかけ、気づいてみたら孤独が待っていた。その頃30歳くらいだとして、丸6年はそのような状態が続いたのだろう。

 

その後に、運良く私を熱心に支えてくれた方に出逢い、ようやく人間らしさを取り戻した。

そして、30代半ばに旦那と出逢い晴れて結婚することになった。

 

私を支えてくれた方に「貴女はこれから人格を再形成していくのだろう。」そう言われたことを懐かしく思い出す。

 

私は不思議と、自分の病のことを積極的に知ろうとは思わなかった。今でもそうだ。どこかに知るのが怖いという思いがあるのかもしれない。私は案外、臆病なのかもしれない。

 

 

現在も何とか人間らしい生活を、お陰さまで送れている。

前回記したように、脳みその慢性疲労で毎日泣きたい気持ちでいるけれど「まぁ、なんとかなるさ!」と覚悟を決めるしかない。

 

混乱していた時期に、まわりにいてくれた人たちには本当に感謝している。結果的に一度決別する形にはなってしまったけれど、今では程よく付き合えていると感じている。

そして、再び落ち着いて生活をできるまで支えてくれた恩人には、感謝してもしきれない程の気持ちを、もし逢うことができたなら伝えたいと思う。

 

こんな自分と結婚してくれた旦那様にも、ありがとうの気持ちを1000回くらい伝えたいと思う。

 

たぶん1000回の「ありがとう」じゃ足りないけれど…。